ささやかな幸せを求めて

旅と食と読書を通して人生のハッピーを追求しています。

おらが殿様

不自由の考察

妙な国である。
国体を構成する「宮内庁」という公的機関が、広く一般国民から「短歌」を募り、「歌会始」と称して一陽来復の新春を寿ぎ、歌の腕前を競い合うという。


世界広しと言えども、これほど優雅に春を祝う国は有るまい。


歌会始と聞くと、僅かながらも胸をざわつかせるものが有る。


皇居歌会始とは比べるべくも無いが、我が父は半世紀もの間、市の広報に愚にもつかない「川柳」を投稿し続けて悦に入っている。


そのくだらなさで一頭群を抜く出来栄えに、家族は都度肝を冷やし、思い止まるよう説得するが、既に耳は遠く、独断と専行は続くのである。

毎月、「市報」の配布から暫くの間、近隣の目は冷たい。(-ω-)


ところが無責任な近所のお婆ちゃん達が老人会の場などで『新聞に掲載されるなんて・・・あんた生半可な知識人じゃないわよぉ~』等と持ち上げたものだから、もう大変。

火に油を注ぐとはこの事である。


ある年から『中央進出を図る』とばかりに、なんと歌会始への応募を始めたのである。


歌会始のお題には、毎年全国から2万首ほどの短歌が寄せられ、そこから十首が選考されるのだという。


選考結果発表に於いても、まあそこは流石の宮内庁
市報のようにいきなり、面白半分の血祭掲載をするようなことはせず、「来年もどうぞ応募してくださいね」という趣旨の「落選通知」が静かに届けられるのみである。


十首に選ばれた人は、新春宮内庁に招待され、恐れ多くも今上天皇の御前に於いて、「ご詠進の誉」を得る事になる。



従軍歴「半年」の生き残り「二等兵」は、憧れの天皇陛下御目見えする為、今日も制作に余念がない。

日本の伝統文化の極み、宮中歌会始の儀

天皇陛下は不便である。


日本国憲法第1章第1条に、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と規定され、その行動、言動は「皇室典範」というマニュアルにより厳格なる制限を受けている。



平たく言うと天皇陛下とは、何を言われても「反論を禁じられ」、「行動の自由も無く」、唯々法律内に規定された「国事行為」を行う事を定められた人。言い換えれば、世界一不自由な生活を強いられた「覚悟の人」という事が出来る。


食べ物一つ取っても、ご自分の「好き嫌い、旨い不味い」の評価は、一切なさらない。

ご自分の発言で優劣を生じさせてはならないというご配慮からだ。


お心の内を決して語らない「あーそう、あーそう」という、陛下のあの相槌も「法を順守する」という、強いお心ゆえのものである。



神武以来、長い天皇制の歴史の中で、我々が最も親しんだ「平成天皇・皇后両陛下」程、国民に寄り添ってくれた方は居ない。


噴火した離島に住む、百数十名への被災お見舞いの際に、ご宿泊ホテルの周りを島民たちが喜びの「提灯行列」を行った。


当然ホテルの中から島民の行列に手を振ってお応えになるのかと思いきや、両陛下は島民と一緒に提灯を振って、行列に参加されたのであった。


また、福島の避難所を慰問した際には、先導する市長の後ろから、両陛下がスリッパも履かずに冷たい床を歩き、被災者の前に膝を折られた。


どこまでも、どこまでも国民に寄り添う姿を貫く、「世界一不自由」な両陛下の「不動の信念」に、多くの人が涙したのである。

天皇陛下のお姿に、どれだけの被災者が救われるだろうか。

今日の幸せ

第二次大戦の激戦地の一つに、フィリピンの「モンテンルパ」がある。


昭和27年に「モンテンルパの夜は更けて」という歌謡曲が大ヒットした。
何とも哀愁漂うこの歌をご存知の諸氏も居られるかと思う。


此処で膝を叩いて大きくうなずいた諸兄の為に、歌詞をご用意しましたので、さぁご一緒に~♬(^^♪


  モンテンルパの 夜は更けて
  つのる思いに やるせない
  遠い故郷 しのびつつ
  涙に曇る 月影に
  優しい母の 夢を見る
 
  モンテンルパに 朝が来りゃ
  昇るこころの 太陽を
  胸に抱いて 今日もまた
  強く生きよう 倒れまい
  日本の土を 踏むまでは


この歌はフィリピン、マニラ郊外の「モンテンルパ刑務所」に収監され、死刑判決を受けていた日本兵の作った歌である。

身を盾にして日本人死刑囚に特赦を与えたキリノ大統領ありがとうございました


この刑務所に収容されていた日本人死刑囚は105名。


家族、友人、支援者等は時の大統領「エルピディオ・キリノ」に対して、繰り返し、繰り返し「助命嘆願」を行うが、事はそれほど簡単な事ではなかった。


フィリピンはこの戦いに於いて、軍人57,000人、一般国民実に100万人という膨大な犠牲者を出しており、安易な妥協は何よりも国民感情が許さなかった。


キリノ大統領自身も、妻子4名、肉親5名を失っていたのだ。


島根県出身の画家「加納莞蕾(かんらい)」氏の288通にも上る『許し難きを許して、憎しみの連鎖を断ち切ってください』という嘆願書に心動かされたキリノ大統領は、1953年6月27日、105名の日本人死刑囚全員の釈放を決めた。



自身がアメリカに潰瘍の手術に渡る日の朝であった。
生きてフィリピンに戻れない可能性が有るならば、己の信念を貫くべきと判断し、議会を通さなくて済む「大統領特赦」を行ったのである。


時は移ろい、平成27年1月26日、天皇皇后両陛下は残された慰霊の地、フィリピンのマニラ郊外にあるモンテンルパでの式典に臨まれた。


式典に出席したキリノ大統領のお孫さん始め、大恩あるフィリピン国民に対し、美智子様は「短歌」に込めて万感の謝意を表したのであった。💛




 『許し得ぬを許せし人の名と共にモンテンルパを心に刻む』



自由な言葉を封じられた「天皇」という職責に在って、唯一自由にお心を語れる短歌という手段をを以って・・・。



もぉぉ~、美智子様ぁ~! 泣かせんといて下さい (T_T)