ささやかな幸せを求めて

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ニイタカヤマノボッタ1208 前編

新高山」近辺の考察


12月8日・・・今日の東京は終日「秋霖」に煙り、この冬一番の冷え込みという事である。



最近は日の入りが早すぎてオチオチ仕事もしていられない。



今年の「冬至は12月22日」だという。



待ち遠しい限りである。



殊更「カボチャ」を食べたいという訳ではなく、名うての「ショートスリーパー」としては長い夜を些か持て余し気味なのである。



秋の夜長は腹が空く。



冷凍の肉まんには度々お世話になるのだが、残念ながら旨いものに当たったことが無い。



この手の「小吃類」で本当に旨いと思うのは、台北市「饒河街夜市」の屋台で食べる「福州世祖・胡椒餅」である。


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饒河街夜市の「福州世祖・胡椒餅」は台湾B級グルメの王様である。


窯でカリカリに焼き上げられた薄い饅頭皮の中に極めてスパーシーな肉とネギが大量に包まれていて、その焼き立てをハフハフと頬張る時、私は常に「口福」の頂きに上り詰めるのである。(#^.^#)



台湾と言えば「頂き」の国である。



ぐるっと周遊された諸兄は既にご存知の事と思うが、あの狭い国土の中に3,000m級の峰々が200座以上も連なっているのである。



その主峰が富士山より高い、標高3,952mを誇る「玉山(ユイシャン)」である。



日本の統治が始まった1895年(明治28年)、富士山を抜いて「玉山」が日本一の山となった事を祝し、明治天皇が「新高山(ニイタカヤマ)」と名付けられたのだという。

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日本統治下の50年間「新高山」は日本一の座にあった。

台湾は日清戦争後の「下関条約」に於いて、日本が時の統治国家であった「清朝」から割譲を受けたのだが、まともな統治が出来なかった清朝政府の役人達は野蛮人の国「台湾」を日本にまんまと押し付ける事が出来大喜びしたという記録が残っている。



昨今のDNA研究によると台湾人の実に87%が漢民族とは似ても似つかぬ「マレーポリネシア系の祖先」を持つ人達だという。



台湾の併合が「民族統一の悲願」だという対岸政府の都合の良い「先祖ねつ造」は、ネイティブ台湾人からすると全く理屈が通らない、甚だ「迷惑千万な話」なのである。 (´Д`)


12月8日の特別考察

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悲劇の発端となった「真珠湾攻撃」この後100年日本のお詫び行脚は続く

1941年(昭和16年)12月2日17時30分、太平洋を密かにハワイへ向け移動中だった「連合艦隊第一航空艦隊」に対し、大本営から「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」の暗号電文が送られた。



80年前の今日。
「12月8日午前零時をもって対米英開戦」の電文を受けた連合艦隊第一航空艦隊は日本時間の12月8日未明、ハワイ・オアフ島真珠湾に停泊中の「アメリカ軍太平洋艦隊基地」を急襲し、不完全ながらも一応の成功を収めてしまう。



第1次攻撃隊指揮官だった淵田美津雄海軍中佐が、ハワイ上空から空母「赤城」に打電した「トラ・トラ・トラ」は世に言う「奇襲に成功せり」ではなく、「突入せよ、雷撃機」の符号として、間髪入れずに第2次攻撃敢行をせよが真意であった。



このチグハグ感を払拭出来ないままに、日本は悲劇の「大東亜戦争」へと突入してゆくのである。(T_T)



「前編」の締め括りの参考資料として「 米国戦略爆撃調査団報告書」にある真珠湾攻撃の総評を掲載する。



日本海軍の機動部隊が11月に出港したとき、それは、かつてどこの国の空軍も集結したことのない、もっとも危険な部隊のひとつであった。


わずかな装甲板を持つか、装甲板を持たず、燃料タンクは防弾式でなく、エンジンは1,000馬力程度、巡航速度150マイル、最大速度200マイルの急降下爆撃機雷撃機が「このもっとも華麗な、成功した攻撃」を実施したことは、今から思えば、まったく驚くべきことである。



攻撃は計画通りに、約1時間間隔で二波にわかれて実施された。
パールハーバーの攻撃の結果については詳述する必要もなく、日本空軍は文字通り空前絶後の完成度のピーク時で戦争を開始したといえば十分であろう。』



さて、「後編」はいつになることやら・・・一先ず続く。(-ω-)/