ささやかな幸せを求めて

旅と食と読書を通して人生のハッピーを追求しています。

3万5千年の衝撃

「掘り」の深堀り



秋たけなわである。



近所のシェア畑では家族総出での「芋堀り」が最盛期を迎えている。



小さな子供達が土にまみれながら「黄色い歓声」を上げる様は何とも微笑ましい。(#^.^#)


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その昔、秋の「芋堀り」は家族が生きていく為の重要なミッションであった。

きっと今夜は「掘りたての芋」が食卓を飾り、子供達も例の「黄色い歓声」でママの料理を迎えるのであろう。



・・・だが、子供たちの声が「黄色い」のはここまでである。



どうして子供の声から「色」が抜けてしまったのか?



理由は至極単純、美味しくないからである。(´Д`)



食物全般に言える事であるが「採れたて、新鮮が美味しい」と思われがちであるが、物事はそう単純なものでもないようだ。



「美味しい = 新鮮」という等式は必ずしも成り立たないという事である。



死ぬほど芋を食って育ってきた先人達は、収穫して一定期間を経過した物の方が甘くて美味しい事を経験則として会得していたのである。



この美味しくなるまでジッと待つ間のことを専門用語で「追熟」と言う。



サツマイモなら概ね二ヶ月の追熟でデンプンが糖化し「糖度が約2倍」になる。



私事で恐縮だが、どうも最近「脇の甘さ」を指摘されることが増えた。



人生の収穫期を過ぎ、どうやら「追熟」が進んでいるらしい。



そこのお嬢さん、そろそろ食べ頃ですよぉ~(´Д`)

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品種改良が進み現在の焼き芋は桁違いに旨い。今日のおやつに是非


「土掘り」の専門家といえば考古学者であろう。



現在、考古学界の中で、古代人達が生きた痕跡を現代に伝える石器や土器の採掘に於いて他国を圧倒するのが日本である。



圧倒すると言っても、日本の考古学者がモグラのようなスピードで土を掘り返しているという訳ではない。



では、何を以って圧倒しているかというとその採掘物の「古さ」である。



日本史教科書の記述によると、縄文時代というのは今から約17,000年前頃~3000年前頃迄の間で、大陸から渡来した民族が石器を使って動物を狩猟し、土器により煮炊きをし、竪穴住居を普及させ定住集落や貝塚を形成したとある。



ところが昭和24年7月、一人の民間考古学者が群馬県笠懸村「岩宿」の関東ローム層の中から「槍先形尖頭器(やりさきがたせんとうき)」を発見したことにより、それまで「旧石器時代、日本列島には人類が住んでいなかった」という世界中の考古学界の常識がひっくり返ってしまったのである。


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日本に石器時代は無かったという定説を一突きで覆した3万5千年前の槍先型尖頭器

この常識破りの人の名は「相澤忠洋(あいざわただひろ)」という。



なんと相澤が発見した槍先形尖頭器は縄文前期より遥かに古い、「3万5千年前」の代物であった。



日本史に「旧石器時代の存在」が確認された瞬間である。



彼の発見が単なる偶然ではない証拠に、その後昭和45年には佐波郡赤堀村「磯遺跡」から前期旧石器時代(約10万年前)の、昭和47年8月には夏井戸遺跡から前期旧石器時代(約20万年前)の石器を発見している。



今や、日本に於いて続々と発見されている超古代の出土品は、人類の祖先が「3万年前」にアフリカ北部の砂漠から世界に旅立って行ったという文化人類学の定説をもアジャパーにしてしまった。(#^.^#)



不遇の天才、相澤忠洋こそ「世界史」をも塗り替えた、考古学界のスーパーパイオニアであった。



今日の幸せ


これまで日本人のDNA(Y染色体)パターンが大陸人や半島人と大きく異なることに多くの人々が疑問を持っていた。



とても同じ祖先を持つ民族とは思えない程大きい、言語、国民性等の差異に対する一つの答えがここに存在する。



相澤が「槍先形尖頭器(やりさきがたせんとうき)」を発見した当時、権威主義に彩られていた学会は、在野の考古学者の発見など歯牙にもかけなかった。



それどころか、年代鑑定を依頼した某大学の教授に至っては、「自分が発見した」と文部省に報告し、記者会見まで開いて手柄を横取りしてしまったのである。



文部省と大学を敵に回した事により奇人変人扱いされ、職場を追われ、「納豆の行商」で食いつなぐ日々にあっても、相澤の「日本人のルーツ」を探りたいという情熱に陰りは無かった。



ある時友人の考古学者が相澤の自宅を訪ねると、畳も無い板敷の部屋の押し入れに稲藁を敷いて寝ている彼の姿があった。



布団はどうしたのかと尋ねる友人に「布団の綿は標本を保存するために使ってしまった」とにこやかに答えたという。


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相澤忠洋:この人の閃きと情熱が日本人の真のルーツを探るきっかけとなった。

しかし、こんな相澤にもようやく「光」が当たる時が来た。



相澤の著作物を読んでおられた「昭和天皇」が「この人を叙勲したい」と願われたのだ。💗



しかし、天皇陛下の御前に立つという夢も儚く、平成元年 5月22日「考古学界の至宝」相澤忠洋は長年の無理が祟り帰らぬ人となった。



それは奇しくも叙勲の日の朝、享年63歳の劇的な幕切れであった。




  春、その山を眺め
  夏、その山を歩き
  秋、その山の土をなめ
  冬、その山を掘った。(相澤忠洋記念館より)



相澤の粗末な文机の前には「朝の来ない夜は無い」と書かれた紙片が貼られていたという。