スゴイ男への考察
標題の句と、この写真を見てピンと名前が浮かんだ諸兄は、かなりの「歴史通」と推察する。
直ぐには思い出せなくても、「どこかで見たこと有るなぁ・・」という諸兄の為にヒントを申し上げよう。
吉本興業の重役「アホの坂田」こと坂田利夫・・・ではない。
見方によっては似ていなくも無いが、この男はもっとスケールのデカい「笑われ者」であった。
この異相とも言える程の、面魂を持った男の名は「河井継之助(つぎのすけ)」と言う。
ここでハタと膝を打った諸兄は、かなりの「司馬遼太郎通」と推察するが、如何でしょうか?
智の巨人、司馬遼太郎が「峠」という作品を通し、人物愛をこめて描いたのが「幕末の風雲児」と呼ばれた、越後長岡藩の執政「河井継之助」である。
当時の長岡藩は小藩であるが故、何とも地味である。
ところが、それなりの人物が率いると、いきなり光りだすから不思議である。
武士の時代が終焉に向かい、外圧により日本の国防が危機に瀕する最中、国内の消耗戦を避けるため「佐幕と勤皇」どちらにも味方をしないという「武装中立」で藩論をまとめ上げ、フランス式調練で鍛えた近代武力を背景に和解調停役を買って出たのである。
今の小千谷市辺りで皇軍との会談を行うが、土佐藩の岩村精一郎(23歳)という血気盛んな軍監が交渉役として出てきてしまった為、「小藩の分際で武装中立などと片腹痛し ! 」と取り付く島もなく、「小千谷談判」は決裂してしまうのだった(T_T)
会津の田舎から出てきたオジサンが「ヤ」の付く自由業のお兄ちゃんに絡まれているところに、空手を習い始めたばかりの小学生が仲裁に入ったが、まとめてボコボコにされたと思って頂ければ一層理解が深まるのではないだろうか。
標題の句は、継之助が合戦のさなかに脚に銃弾を受け、小千谷から会津に落ちていく途中の「八十里峠」で詠んだ辞世である。
戸板に載せられ、立ち上がれない己を自嘲した、いかにも継之助らしい句である。
消えゆく侍の悲しみが溢れ、何とも心を打つ。
継之助はこの銃創から破傷風を発症し、8日後にこの世を去る。
河井継之助 享年41歳。一代の英傑はこうして「歴史」となった。
今日の幸せ
世に英傑と呼ばれる人たちは挙って薄命である。
しかし、穿った言い方をすれば、早逝してしまったが故に老害とならずにすんだとも言える。
この幕末維新の時代を駆け抜けた有名人の没年齢は
高杉晋作 27歳:奇兵隊創設者・病死
吉田松陰 29歳:松下村塾塾長・ 獄死
坂本龍馬 31歳:海援隊隊長・薩長同盟・ 暗殺
木戸孝允 43歳:長州藩執政・逃げの小五郎 ・病死
大久保利通47歳:不人気だが国家の元型を作った超人・ 暗殺
西郷隆盛 49歳:薩摩の星・底無しに太か男ですたい ・戦死
金広 栄 50歳:峠を越した無芸大食の腰痛持ち・ 頓死
つい勢いで最後に自分を入れてしまいましたぁ~、スイマセ~ン(´Д`)
全員今の私よりも若くして世を去っているのだが、功績に至っては比べるべくも無い。
やはり人間の価値は「いつまで生きたか」ではなく、「どう生きたか」にあるようだ。"(-""-)"
明治維新で我々のご先祖様が、同胞の血を代償として得たのが「国家」「国民」「自由」という概念である。
坂本龍馬は言った。
「彼の国では百姓の小倅でん、志が有れば殿様にだって成れるがぁぜよ!」
いま日本の周辺海域では徳川政権末期のような外圧が有ると聞く。
人間の命に限りがある以上、歴史は必ず繰り返す。
維新のきっかけとなった鳥羽伏見の戦いから、まだたかだか153年しか経っていないのだ。
我々のご先祖様は、国家国民がどう在れば国難を回避できるかを「歴史」として教えてくれている。
そうだ、歴史に学ぼう
明日も、明後日も
来年も、再来年も
この国に生まれ来る全ての子供たちが、平和で暮らせるように!
ご先祖様ァ~、今日こうして在ることに感謝してま~す💛
ありがとう。